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主宰者:藤木 太郎 (東京都中野区) |
昭和18年
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●長野県須坂市に生れる。
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昭和25年
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●小学校低学年は、終戦直後の虚弱児童だけの特殊学級の「養護学級」に所属。病弱な人間だけ集めたクラスだった。
●その時の担任の先生と水泳のお陰で生き永らえている(同級生で2人は小学校も卒業できずに無くなってしまった哀しい思い出もある)。その10才くらいの頃から自然に水泳をするようになった
(日本で2番目に古い本格的“水泳場”があった長野県須坂市(当時すでにに100m プールがあった)
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昭和31年
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●須坂市立相森中学校に入学、水泳部に所属。まったく芽は出ず。でも水泳部主将を任される。
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昭和34年
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●長野県立須坂西高校(現須坂高校)に入学。(同時に県下では最強の水泳部に入部する)厳しい練習の中、不思議に記録が伸び始め、一年生で県高校で200m平泳ぎ優勝に自分で驚く。
●この頃から、当時は希少価値だった冬でも練習できる屋内プール,温泉プール探しの始まり。
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昭和34年
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●(高校1年) 第14回東京国体夏季大会(200m平泳)に長野県代表として出場
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昭和35年
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●県高校では100m平泳ぎ優勝と200m平泳ぎは2年連続優勝。400mメドレーリレーも優勝。
●第15回熊本国体夏季大会(200m平泳)に長野県代表として出場(高校2年)。水泳部部長。
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昭和37年
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●大阪市立大学に入学、水泳部に入部するも学内にプールなし。
初の屋外練習場は、私の生涯の尊敬するヒーロー真田幸村(真田左衛門佐信繁)が、大阪冬の陣夏の陣でただ一人出城(砦)を築いた辺りにある市立真田山プールだったから、これは運命だと興奮。(4年後には幸村父子が蟄居させられていた和歌山県の九度山町出身の新入部員も入りますます運命を感じる(笑))
その後も練習場探しに苦労するジプシー生活。貧困学生の生活厳しくハラ減る毎日。
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昭和39年
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●東京オリンピックに興奮する。水泳は実地に観戦、応援する。
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昭和42年
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●同大学 水泳部主将を任される。
●先輩からの長年のプール建設運動が実を結び、松下幸之助氏が理事長の「(財)大阪市立大学後援会」の第1期事業として50m屋外プールを建設して頂く。ホームプールがヤット出来て歓喜乱舞!
>>松下さんによるテープカット
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昭和45年
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●過労死寸前のハードな仕事。の健康管理のために屋内プールを探し再開。なかなか無くて苦労する。
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昭和53年
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●スイミングクラブ主宰の大会やマスターズ水泳に出場するようになる。
所属は恒泳会マスターズ、練習は堺市のおおとりSC、旧エグザスインヒルトンプラザで
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平成元年
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●ソウルオリンピック観戦応援に行く。(小谷実可子さん応援‥‥ソロ、デュエット銅メダル)
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平成8年
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●アトランタオリンピック・シンクロ代表の我が娘(次女)の応援に行く。
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平成9年
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●ホームページ【水夢王国】を立ち上げる準備で苦労する。
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平成10年
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●故郷長野で冬季五輪開催。ナガノオリンピック観戦に行く。
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平成12年
(2000年) |
●東京に単身赴任(12月)。マスターズチームは東京では「ロング小豆沢」に混ぜてもらってました。
●13年も東京ドームで。
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平成14年
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●4月、単身赴任から帰阪●6月、再度東京赴任に。
●9月、米国のシンクロクラブ「Walnut
Creek
Aquanuts
」(米国カリフォルニア/サンフランシスコ郊外にありシンクロ歴代の金メダリストは殆どここから生まれている)に、ここが勤務先である次女の計らいで、「Walnut
Creek Aquanuts
」の年一回のお祭り“Swim-show”を観戦。そのアトラクションで地元父兄のお父さん達5人の中に入れて頂き、初めてパパたちによるコミックシンクロ・に出場。自分一人だけ演技に戸惑いシンクロの難しさを思い知る。
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平成15年
(還暦)
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●1月〜住まいと会社の関係で目黒区西小山の『INSC』(西小山スイミングクラブ)と『ルネサンス目黒』『セントラルフィットネス南青山』にて週2回程度の練習。
●《水夢王国》東京練習会が宇田川一史コーチのご厚意によって発足。
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平成16年
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●昨年末で3回目の成人式を迎え、いよいよ人生の再出発の年齢になった。いよいよこれからが自分の本当の人生だ!と思って、更に充実したサイトに発展させたいと思っている。
そして、今後の自分のライフワークは「屋内プール研究家」として、屋内プールの普及の必要性を訴えていくためにインドアプール関連の研究を始める。
●練習は、エスフォルタ六本木と池袋のハタセントラルにて週3回〜4回。生まれながらの虚弱体質の身体をいたわりながら、マスターズで自己記録に挑戦するのを楽しんでいる。
●2004年(平成16年)アテネ五輪、特に北島康介選手を始めとする日本水泳陣の大活躍に驚喜する。
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平成17年
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●毎日MBSテレビから出演要請あり、『プールの達人』として紹介され、神戸市の『デカパトス』の事前評価をする
●昨年度の『日本マスターズ50傑ランキング(長水路)』で、やっと50m平泳が10位に。
●『日本水泳・水中運動学会』会員となり、勉強を始める。
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平成18年
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●水泳・水中運動を進展させていくのと正反対の動きが出てきたので、『水夢王国』の建国理念からして黙っている訳にはいかず、生まれて初めて署名運動を始める。
●「ねんりんピック2006静岡大会」に東京都代表で出場(2006年10月)する。
●目黒区水泳連盟に所属する。
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平成19年
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●勤務先の移転で4月から練習プールを「DO
Spoets Plaza
豊州」に移す。
●肩の故障でマスターズ大会本格出場は休憩状態。
●日本水泳連盟認定「基礎水泳指導員」資格を再取得。
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平成20年
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●全国「ペアーレ」施設の存続を求める会を継続。2回目の署名提出。
●健康スポーツ施設の増設を訴える。(民主党「明日の内閣」スポーツ政策小委員会にて)
●日本水泳連盟認定「競技役員」資格を再取得。
●《水夢王国》東京練習会に「マスターズ入門練習会」を後藤利章コーチのご厚意で立ち上がる。
。写真1、写真2
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平成21年
(2009年)
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●日本体育協会公認水泳指導員
●仕事の関係で、会員プールを5月から中野区の「TAC(東京アスレティッククラブ」に。
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平成22年
(2010年) |
●今までの《水夢王国》がメディアに紹介された履歴を整理してみた。>>詳細を見る |
平成25年
(2013年)
(古希) |
写真1、写真2
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平成26年(2014年) |
●日本マスターズ水泳選手権大会 10年連続出場賞を受ける
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平成29年(2017年) |
●テレビ朝日『まつこと有吉のカリスマ天国』の「絶叫ウオータースライダー」の企画にも参加 “プール研究家”として紹介される。
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平成28年
(2016年) |
●母校大阪市立大学の50mプールを松下幸之助氏が理事長の「大阪市立大学後援会」によって建設されて50周年を迎え 記念祝賀会。当時主将を任されていた関係でプール完工プレートの横に「感謝50年」の記念プレートの揮毫を任され、プール管理棟の壁に埋め込まれる。
埋め込まれたプレート前にて、プレート、祝賀会講演会風景
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令和2年
10月 |
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